名門貴族の家に生まれたブルトゥスは幼くして父を亡くしたが、母セルウィリアと恋仲にあったカエサルを父親代わりに育てられた。
セルウィリアはカエサルの愛人だったが最も愛された女性ともいわれる。
なおブルトゥスの父(大ブルトゥス)を殺害したのは後述する三頭政治の一角ポンペイウスだったも伝えられている。
成長したブルトゥスは政治の道を進み元老院の議席を得る。
元老院をはじめとする共和派とカエサル、ポンペイウス、クラッススの第一回三頭政治の3人は対立していた。
クラッススがパルティア遠征に失敗し死亡すると元老院は三頭政治の崩壊を画策しポンペイウスを引き込みカエサルと対峙した。
こうしてローマ内戦が勃発した。
有名な「ルビコン川を渡る」や「賽は投げられた」などはこの内戦時のものである。
ブルトゥスは父の仇であるポンペイウスがいる元老院派ではなく育ての親であるカエサルにつくと思われていた。
だがブルトゥスはポンペイウスについた。
私的な復讐よりも公的な政治活動を優先したのである。
この時カエサルは敵であるブルトゥスに対して危害を加えないよう厳命を出している。
最終的にローマ内戦はポンペイウス陣営から離反者が続出カエサルの勝利で終わる。
その時ポンペイウス陣営を離反したブルトゥスをカエサルは側近に迎え入れている。
内戦後、終身独裁官就任など独裁色を強めていくカエサルを脅威に思った元老院派はカエサル暗殺の謀略を巡らせる。
暗殺の首謀者はカッシウス・ロンギヌス。
ローマに共和制をもたらしたルキウス・ユニウス・ブルトゥスを祖先に持つブルトゥスは共和制の旗印として暗殺計画に引き込まれることになった。
カッシウスはカエサルの腹心であったマルクス・アントニウスも暗殺することを主張する。
しかしブルトゥスは流れるのはカエサル1人の血で十分とこれを拒否した。
3月15日、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊で数十人の議員たちによりカエサルは四方から滅多切りされ命を落とした。
暗殺の際にブルトゥスは「Sic semper tyrannis(専制者は斯くの如く)」と語ったと言われる。
「独裁者はこのように(倒されるのだ)」という意味だろうか。
元老院は僭主カエサルを亡き者にした実行犯を罪に問わず恩赦を与える決議をした。
決議にはカエサルの腹心だったアントニウスも名を連ねていたが、カエサルの葬儀を執り行うという条件に恩赦に同意したと言われる。
葬儀でのアントニウス演説により元老院派は一気に形勢が不利になった。
騒乱を予見したブルトゥスはいち早くローマから離れて東方へ向かった。
ローマでオクタウィアヌスやアントニウスが支配権を手にするようになるとカエサルを神格化し自分らの権威を高める動きが活発になる。
そのためには暗殺を実行したブルトゥスらが生きていると非常に都合が悪かった。
ブルトゥスは同じく東方に逃れていたカッシウスと共に軍を挙兵、ローマへ向かい進軍を開始した。
オクタウィアヌスとアントニウスは権力争いをしていたが一時休戦し手を結び、対ブルトゥス軍を結成すると軍を進めた。
両軍はマケドニアのフィリッピで激突、名将として名高いアントニウスの活躍もあってローマ軍の勝利に終わる。
カッシウスとブルトゥスは自害した。
皮肉にもカエサル暗殺は共和制ローマ終焉の引き金になり時代は帝政ローマへと移り変わるのだった。
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