ガイウス・ユリウス・カエサルの腹心としてガリア戦争をはじめ数々の戦で活躍した。
カエサルが暗殺されると元老院派と一度手を結びカエサルの葬儀を行うことを認めさせた。
その葬儀の場でブルトゥスやカッシウスの悪行をほめ殺しを交えつつ暴き立て民衆を扇動し、元老院派を追放した。
演説はブルトゥスらが主張するカエサルが暗殺されなくてはならなかった理由に1つ1つに反証しつつ、
「公明正大な彼ら(honourable man)がそう主張するのならそうなのだろうな」という言葉を幾度となく繰り返した。
その度ごとにローマ市民の元老院派に対する怒りは膨らんでいった。
『ジュリアス・シーザー』の劇中の見せ所の一つはこのアントニウスの演説と言われている。
カエサルの右腕であったアントニウスだがカエサルは自身の大甥で養子のオクタウィアヌスを後継者に指名していた。
初めはオクタウィアヌスと対立していたアントニウスだが反元老院派で利害が一致。
オクタウィアヌス、レピドゥスと同盟を結びローマの支配権を手にする。
これを第2回三頭政治という。
東方に逃げ延びていたブルトゥスやカッシウスらの元老院派をフィリッピの戦いで打ち破る。
アントニウスはこの戦いの後にエジプトのプトレマイオス朝のファラオクレオパトラ7世と親密な関係になっていた。
三頭政治の各人は表向きは同盟を結んでいたものの三者は自らの勢力の強化し続けていた。
アントニウスの妻と弟は権力争いの相手になったオクタウィアヌスに反抗・蜂起したがこれはほどなくして鎮圧された。
同盟関係の信頼が危うくなるがアントニウスは死亡した妻と弟に責任を押し付ける形でオクタウィアヌスと和解。
婚姻で同盟強化を図ったオクタウィアヌスは自身の姉オクタウィアをアントニウスと結婚させた。
その後イタリア以外のローマ帝国領を東方をアントニウス、西方をオクタウィアヌス、アフリカをレピドゥスへとそれぞれの勢力圏に沿う形で分割した。
アントニウスはオクタウィアヌスを凌駕するためにカエサルも成しえなかった東方パルティア征服しようと目論んだ
そのために背後の防備を固めるためエジプトを欲した。
この遠征で再びアントニウスはクレオパトラ7世の仲は接近した。
結局パルティア遠征は失敗するのだが、この時アントニウスはオクタウィアと離婚しクレオパトラ7世と結婚したと言われる。
勝利の凱旋をローマではなくアレクサンドリアで行ったこと、アルメニア王国の領土を帝国に無断でクレオパトラ7世や息子に分割したこと、
自分が死したときはローマではなくエジプトに埋葬してほしいとの遺言状を書いたこと。
そして一方的なオクタウィアとの離縁はローマ市民の反感を買った。
「エジプト女に骨抜きにされたローマ人の自覚を失った男」を討つべしという意見がローマでは高まりつつあった。
数々のアントニウスの失策をみたオクタウィアヌスはアントニウス及びプトレマイオス朝に宣戦布告した。
両軍はアクティウム沖で激突、アクティウムの海戦が勃発する。
この戦いに敗れたアントニウスとクレオパトラ7世はエジプトへと敗走した。
これにより趨勢は決し、相次いでアントニウス陣営から離反者が出る。
アレクサンドリアにオクタウィアヌス軍が迫る中、アントニウスはクレオパトラ7世自害の報を聞き自刃した。
これは誤報であったのだが、オクタウィアヌス軍に捕らえられたクレオパトラ7世もアントニウスの後を追うように自らをコブラに噛ませ自害した。
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