紀元前100年(あるいは102年)に名門貴族カエサル家に生まれる。
父も同名のガイウス・ユリウス・カエサルなのでそちらを大カエサルと呼ぶこともある。
15歳の時に父が急死するとカエサル家の家長となる。
だが父の遺した莫大な資産は政敵であったルキウス・コルネリウス・スッラに没収された。
初めカエサルは政治の道には進まず神祇官(神官)の道を進んだ。
スッラがローマ市を制圧し終身独裁官に就くと対立する民衆派を国家の敵として次々粛清した。
義理の叔父や妻の父が民衆派だったカエサルも処刑リストに名前を連ねていた。
まだ若く政治活動をしたことのなかったことからカエサルの除名が嘆願されスッラは渋々ながらこれに同意した。
辛うじて処刑は免れたもののカエサルは身の危険を感じギリシャ南部アカエアへ亡命した。
紀元前78年にスッラが死去したことでカエサルはようやくローマに帰還を果たす。
ローマに戻ったカエサルは賄賂や搾取を行う悪徳属州総督を次々告発する弁舌家として一躍有名になった。
あるとき告発が不調に終わり復讐を恐れたカエサルは再びローマを離れる。
数年の後、ローマに戻ったカエサルはローマの元首である執政官を目指し出世コースをひた走ることになる。
財務官や元老院議員、最高神祇官や法務官を経て紀元前59年カエサルはついに執政官に就いた。
民衆から絶大な支持を集めるカエサル、強大な軍事力を持つポンペイウス、莫大な資産を有するクラッススの3人で第一回三頭政治が結成された。
ここでカエサルは元老院の体制に大きくメスを入れる改革を行った。
1年の執政官の任期を終え、ガリア属州総督に就任したカエサルだったがほどなくしてガリア戦争が勃発、8年にも及ぶガリア人との戦争が始まった。
カエサルは指揮官としてよく戦い、遂には勝利をおさめガリア全土をローマ属州にすることに成功した。
この時書かれたものが前述した『ガリア戦記』である。
この勝利でカエサルは名声を高め、軍団兵からも支持を集めローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓う兵も少なくなかった。
これは元老院派のカエサルに対する警戒心をより強くさせ強硬策を取らせる結果ともなった。
パルティア遠征の失敗で第一回三頭政治の一人クラッススが戦死すると三頭政治は崩壊した。
カエサルに脅威を感じていた元老院はもう一人の三頭政治ポンペイウスを引き入れた。
これによりカエサルと元老院の対立が回避できないものとなった。
紀元前49年にカエサルに対して元老院はガリア属州総督を解任、ローマに出頭するようセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムを出した。
これは共和政を脅かす者に対して元老院が発令する最終勧告で元老院派の政敵である民衆派に対して度々発令された。
死刑宣告にも等しい扱いにカエサルは憤慨。
禁止されていた軍を率いてルビコン川を越えてローマに侵入しローマ内戦が勃発した。
渡河の際に飛ばした檄が有名な「alea iacta est(賽は投げられた)」である。
瞬く間にローマの支配権を手にしたカエサルは執政官に選出され、ギリシャに逃れていたポンペイウスら元老院派の討伐を決めた。
デュッラキウムの戦いでカエサルは大敗し自らの命さえ危うくしたが、ファルサルスの戦いでポンペイウスを破りカエサルはローマの覇権確立へ大きく前進した。
ポンペイウスはエジプトに逃れようとしたがアレクサンドリアに上陸する際にプトレマイオス13世の側近により暗殺された。
ポンペイウスを追ってアレクサンドリアに上陸したカエサル。
エジプトではプトレマイオス13世とクレオパトラ7世の姉弟による権力争いの真っ最中だった。
仲介を模索したもののプトレマイオス13世陣営に攻撃されたカエサルはクレオパトラ7世側につきプトレマイオス13世を打ち破った。
こうしてクレオパトラ7世はもう1人の弟プトレマイオス14世と共同でファラオの地位に就いた。
この時クレオパトラ7世と密接な関係になり2人の間にはカエサリオンが生まれた言われる。
ポンペイウスが死亡したことで彼を後ろ盾にして王位についたファルナケス2世はローマに奪われた土地を奪還すべく挙兵する。
部下カルウィヌスが敗北したという報を聞いてカエサルは自ら軍を率いてエジプトを発つ。
現在のトルコ、ジレ付近でファルナケスと戦闘に入ったカエサルはわずか4時間でこれを打ち破った。
その時ローマにいる腹心の1人マティウスに送った戦勝報告が「Veni, vidi, vici(来た、見た、勝った)」だった。
紀元前46年夏、ローマに凱旋したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられた。
このときクレオパトラ7世やカエサリオンをローマに招いていたという。
ほどなくして残存する元老院派のポンペイウスの遺児らを打ち破りローマ内戦は終結した。
元老院派を武力で制圧しローマの支配権を固めたカエサルは元老院の権威を低下させる政策をとったり、
本来国家の非常事態に半年以内の任期で任命される独裁官の地位に終身独裁官、つまり無期で就き帝政樹立へと踏み出した。
これに脅威を感じた元老院派は[カッシウスを中心にカエサル暗殺を計画した。
紀元前44年3月15日、元老院会議に出席するためポンペイウス劇場に訪れたカエサルにブルトゥスらが次々に襲いかかった。
その際にカエサルが叫んだのが有名な「ブルトゥス、お前もか」という言葉である。
カエサルは友人であり腹心でもある目をかけていた男に裏切られ殺されたのである。
なお暗殺には2人のブルトゥスが関与しており、1人は前述のマルクス・ユニウス・ブルトゥス。
もう1人はカエサルの遠縁のデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスである。
「ブルトゥス、お前もか」は前者のブルトゥスだったという説が一般的。
暗殺の数日後に開封された遺言状の第二相続人には後者のブルトゥスの名が指名されており、
この事実を知ったデキムスは蒼白になり暗殺に加わったことを後悔し、家に閉じこもったと言われる。
カエサルは生前死に方について問われた際に「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と答えている。
暗殺はまさにその通りになってしまったのである。
カエサルの死で帝政は潰えるかと思われたが葬儀でのマルクス・アントニウスの演説で元老院派は市民の支持を失い、
アントニウスやオクタウィアヌスらといったカエサルの後継者によって排除され、ローマは帝政の道に進んでいくことになる。
元老院議員時代のカエサルの人物像としては「借金王」「ハゲの女たらし」と言うひどいものであったという。
三頭政治の一人クラッススにとてつもない額の借金をしていたのは事実であるし、
薄い髪を隠すための髪型はシーザーカットと呼ばれヨーロッパでは度々流行になったりしている。
女たらしについてはかなりひどく、生涯3人の女性と結婚し数えきれない愛人がいた。
三頭政治のクラッススやポンペイウスの妻とも愛人関係にあったという。
またブルトゥスの母であるセルウィリアもその中の一人である。
誇張気味ではあるが元老院議員の1/3がカエサルに妻を寝取られたという話もある。
当時の元老院議員の定数は600人なので200人近い愛人がいたということだろうか。
古代ローマの凱旋式では軍団兵が将軍に対してからかいのヤジを飛ばす習慣があったが、
カエサルの凱旋式では「夫たちよ、妻を隠せ。ヤカン頭の女たらしのお通りだ」とヤジが飛んだとスエトニウスの『ローマ皇帝伝』には書かれている。
ヤカン頭とはヤカンのようにつるつるで光っている頭、つまりハゲ頭のことである。
子宝には恵まれず男児に至ってはクレオパトラ7世との子カエサリオン1人だけだったともいわれる。
男系はいなかったがカエサルの妹の小ユリアの子たちがカエサルの血を引く皇帝として世襲されることとなった。
これはカエサルの大甥オクタウィアヌス(アウグストゥス)が初代皇帝になった紀元前27年から5代皇帝ネロが自害する68年までの約100年間続いた。
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